米泉町の氏神・米日吉神社は、創建年代がわかっていません。理由は中世の兵火と伏見川の氾濫で社宝や古文書を失ったからだと伝わります。この話は米日吉神社の記事で書きました。

では、その伏見川は実際にどれくらい暴れてきたのか。県の河川整備計画と金沢市の記録をたどると、年が特定できる氾濫が出てきます。

倉ケ岳から出て、産業展示館の前で犀川に入る

まず川の素性から。伏見川は犀川水系の二級河川で、水源は倉ケ岳(金沢市)。住吉、別所、山科と山あいを流れ、山科で金沢市街地に入ります。延長は約13.6km。古府西で北陸自動車道をくぐった直後、石川県産業展示館4号館の正面で犀川に合流します。

途中で高橋川と木呂川を合わせます。米泉のあたりは、その高橋川との合流点に近い低い土地です。

県の犀川水系河川整備計画は、伏見川の中流から下流を「大部分は市街地を流れる単調な直線河川」と書いています。もともと自然の川だったものが、市街化に合わせて真っすぐな水路になった、ということです。

記録に残る氾濫の年

犀川水系の水害は、梅雨期と台風期に集中しています。県の整備計画が挙げている明治以降の大きな洪水は次のとおりです。

年出来事
明治29年・大正11年・昭和8年・昭和27年・昭和28年集中豪雨による溢水氾濫
昭和36年9月第二室戸台風。犀川が氾濫し、金沢市の中心市街地で床上浸水約1,000戸・床下浸水約500戸
昭和49年7月前線豪雨。伏見川等が氾濫し、大きな浸水被害
平成10年9月台風7号。下流部で内水被害

昭和49年(1974年)のものは、地元の資料にも痕跡が残っています。伏見台地区の防災計画に添付された「水害履歴図」には、1974年7月10日の大雨による浸水域と1998年9月22日の大雨による浸水域が描き込まれています。1998年9月22日は、金沢市が公開している浸水実績区域図の対象降雨とも一致します。

昭和49年の氾濫が、伏見川のどの地点でどれだけの戸数に及んだかは、今回の調べでは確認できていません。県の計画は「伏見川等が氾濫し、大きな浸水被害が生じた」とだけ記しています。

昭和36年が、治水事業の起点になった

犀川水系で本格的な治水事業が始まったのは、昭和36年9月の大出水がきっかけでした。

昭和36年から41年にかけて災害復旧助成事業として犀川の下流部を改修し、同時に犀川ダムの建設に着手して昭和40年度に完成。その後も浅野川放水路や内川ダムが続きます。

支川の側も手が入りました。伏見川については、犀川合流点から上流6,280mの区間で暫定河川改修が完了しているとされています。「暫定」という言葉が残っているのは、まだ計画どおりの断面には達していないという意味です。

同じ計画書は、市街化が急速に進んだ下流部について「支川の治水安全度の向上が急務」とも書いています。西金沢・米泉・押野のあたりは、まさにその市街化した下流域にあたります。

いまは水位が知らされる川になった

平成18年(2006年)8月、伏見川は高橋川とともに石川県の水位周知河川に指定されました。避難の目安になる水位に達したときに情報が出される川、という位置づけです。

金沢市が公開している浸水実績区域図の対象降雨は、平成3年6月29日から平成20年8月28日までの12回。この20年足らずのあいだにも、市内では繰り返し浸水が起きていることになります。

古文書を流された神社と、水位を知らせる仕組み。あいだには数百年ありますが、扱っている相手は同じ川です。米泉小学校の脇を流れていく細い川筋を見ながらそう考えると、犀川緑地の広々とした河川敷も、遊び場である前に水を逃がす場所なのだと気づきます。

参考