歴史

松金線の21駅 — 停留所跡はどこにあったか

野町から松任まで8.4キロに21の駅を並べていた北陸鉄道松金線。駅の一覧と営業キロを表にし、野々市市の資料でわかる停留所跡の「いまの場所」をたどります。

歴史

「金沢市になった年」は村ごとに違う — 昭和10年から31年まで

米泉、保古、示野、無量寺、大額、新保本。西金沢まわりの町が金沢市に入った日は、昭和10年から31年までばらばらです。もとの村と編入日、古い文書に残る地名を表にまとめました。

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西金沢まわりの秋祭り — 神社ごとの祭礼日

米日吉神社は9月の敬老の日の前日、高皇産霊神社は10月10日。西金沢まわりの4つの神社の祭礼日を、出典つきで一枚の表にまとめました。

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どこで市が変わるのか — 西金沢駅の南を歩く

西金沢駅から南へ歩くと、どこかで金沢市が野々市市に変わります。押野が両市にあること、一駅で市境をまたぐ石川線、市境を無視する氏子区域。境目そのものを手がかりに、駅の南側を見直してみます。

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西金沢と鉄道の120年 — 1枚の年表でたどる

1904年の馬車鉄道から、2027年度の新型車両デビュー予定まで。これまでの鉄道記事5本に散らばっていた年号を、ひとつの年表に並べました。

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青電車が走っていたころ — 北陸鉄道金沢市内線と、西金沢からの乗り継ぎ

1919年から1967年まで、金沢の街なかを路面電車が走っていました。西金沢は通りませんが、新西金沢から石川線に乗って野町まで行けば、そこに青電車がいたのです。

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伏見川はなぜ暴れたか — 西金沢を流れる川の水害史

米泉のそばを流れる伏見川。神社の古文書を流し、昭和49年には氾濫して広い浸水域をつくりました。犀川水系の記録から、この川と町の付き合い方をたどります。

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石川線が残ると決まるまで — 新西金沢駅を通る電車のこれから

一度はBRT化が検討された北陸鉄道石川線。存続の決め手はバス運転士不足でした。132億円の支援計画と2027年度デビューの新型車両まで、決着までの経緯を整理します。

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旧北国街道と押野 — 京へ向かう道は、西金沢の南を通っていた

押野から本町・稲荷・三日市へ。江戸時代、金沢城下から京へ向かう街道は西金沢の南を抜けていました。加賀藩が最初の宿駅に定めた野々市と、いまも残る街道の痕跡をたどります。

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一向一揆の拠点は米泉にあった — 洲崎慶覚という人

1488年、加賀の守護・富樫政親を滅ぼした一向一揆。その大将のひとり洲崎慶覚は、いまの金沢市米泉町に住んでいたと伝わります。

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大乗寺はもともと野々市にあった — 700年かけて移った禅寺

曹洞宗の名刹・大乗寺は、1263年に野々市で創建されました。真言宗から禅寺へ変わり、江戸時代に現在の金沢市長坂町へ移るまでの話。

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「四十万」と書いて「しじま」— 石川線沿線の難読地名

石川線に四十万駅があります。この読みにくい地名の由来には仏教説話にまつわる一説がありますが、諸説あって定まっていません。

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押野はなぜ金沢市と野々市市に分かれているのか

1956年に金沢市へ編入された押野村は、そのわずか1年3か月後に一部が野々市町へ再編入されました。生徒の集団転校まで起きた、市境が引き直された話。

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消えた鉄道・北陸鉄道松金線 — 押野を走っていた電車

かつて松任と金沢を結び、押野を通っていた松金線。戦時中の資材供出で半分を失い、1955年に全線が姿を消しました。

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工場のまち・西金沢 — 凍豆腐とビスケットの100年

昭和初期、西金沢駅の周辺から都市化が進み、多くの工場が建ちました。いまも西金沢に本社を置く羽二重豆腐と、押野の北陸製菓の話。

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石川線と新西金沢駅 — 大正生まれのローカル私鉄

1915年、石川電気鉄道の「新野々市駅」として開業した新西金沢駅。北陸鉄道石川線とともに歩んだ歴史を紹介します。

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西金沢駅の110年 — 「野々市駅」として生まれた駅

1912年に国鉄北陸本線の「野々市駅」として開業し、2024年にIRいしかわ鉄道の駅となった西金沢駅。110年あまりの歩みをたどります。