西金沢駅のまわりは、いまはどこも「金沢市」です。けれど、金沢市になった日は町によって違います。早いところは昭和10年、遅いところは昭和31年。同じ駅の徒歩圏で、20年あまりの差があります。

もとは明治22年の村

明治22年(1889年)の町村制で、いまの町の多くは小さな村が集まった「村」の一部になりました。その村が、昭和に入ってから順に金沢市へ編入されていきます。金沢市の「市域の変遷」と、各村のWikipediaの記載をつき合わせると、西金沢まわりはこうなります。

いまの町明治22年の所属金沢市に編入された日
保古米丸村昭和10年12月16日
米泉町三馬村昭和11年4月1日
示野町戸板村昭和18年10月1日
無量寺大野村昭和18年12月1日
大額額村昭和29年7月1日
新保本・西金沢押野村昭和31年1月1日

昭和10年12月16日には米丸村のほか、富樫村・潟津村・鞍月村・粟崎村・大野町がまとめて編入されています。ここでいう大野町は、無量寺が属した大野村とは別の自治体です。大野村は昭和18年12月1日、金石町・二塚村と同じ日に金沢市に入りました。

押野村は最後に、そして一部は出ていった

一覧のなかで最後に金沢市に入ったのが押野村(昭和31年1月1日)です。このときに字名の付け替えがあり、字太郎田が西金沢町、字八日市新保が新保本町、字矢木荒屋が上荒屋町になりました。「西金沢」という町名は、この編入のときに生まれたことになります。

押野村はその後、一部が野々市町(いまの野々市市)へ移っています。その経緯は押野はなぜ金沢市と野々市市に分かれているのかに書いたので、ここでは繰り返しません。

古い文書に出てくる地名

編入の日はばらばらでも、地名そのものはずっと古くから使われてきました。平凡社『日本歴史地名大系』(コトバンク掲載分)には、こんな記載があります。

  • 無量寺(むりょうじ): 正中2年(1325年)の文書に村名が見える。かつて当地にあった寺院の名に由来するという
  • 示野(しめの): 元亨2年(1322年)の文書に「しめのゝむら」と見える
  • 保古: 読みは「ほご」。「保後」とも書き、「ふご」とも読んだ。明応4年(1495年)の文書に「保後村」
  • 米泉: 一向一揆の大将のひとり・洲崎慶覚らの拠点。詳しくは洲崎慶覚の記事へ

保古は日本郵便の郵便番号検索でも読みが「ホゴ」となっています。

村の名前の由来がわかるものもあります。二塚村は村内にあった縄文時代の二つの塚が、額村は「額」の付く7つの村をまとめて「額七か村」と呼んだことが、それぞれ村名の由来とされています(いずれもWikipediaの記載)。大額は、その額七か村のひとつでした。

示野・大額・米泉・保古・新保本の「地名そのものの由来」は、今回の調べでは確認できていません。

住所の裏にある「村」

いまの住所表記から、もとの村の名前は見えません。それでも、編入の日付を並べてみると、金沢市が昭和の20年あまりをかけて一つずつ村を迎え入れてきたことがわかります。隣の町と「金沢市歴」が20年違う、というのは、地図だけ見ていてもわからない話です。

参考