西金沢駅から歩いてすぐの米泉町(よねいずみまち)。いまは住宅と工場が並ぶ静かな町ですが、ここは中世、加賀国を揺るがした一向一揆の拠点のひとつでした。

「百姓ノ持タル国」の始まり

15世紀後半の加賀では、浄土真宗(一向宗)の門徒が力を強めていました。そして 1488年(長享2年)6月、一揆勢が守護・富樫政親を高尾城に包囲し、政親は自刃します。これ以後、加賀はおよそ100年にわたって門徒たちが治める国になりました。

この長享一揆で大将のひとりとなったのが、洲崎慶覚(すざきけいかく)という人物です。

慶覚が住んでいた場所

米泉村(現在の金沢市米泉町)は、石川郡における一向一揆の活動拠点のひとつでした。門徒の組織「米泉組」(米富組とも)の中核がここにあり、その指導者だったのが慶覚です。

1491年(延徳3年)の冷泉為広の記録には、慶覚がこの地に邸宅を構えていたことをうかがわせる記述があります。慶覚は河合宣久らとともに一揆勢を率いて、富樫政親を追い詰めました。

慶覚の邸宅が米泉町のどのあたりにあったのか、正確な場所は特定できていません。「このあたりに」という以上のことは、いまのところわかっていません。

富樫氏との距離

興味深いのは位置関係です。富樫氏の館があったのは、いまの野々市市住吉町のあたり。米泉町からは南西に数キロという近さです。

つまり守護の館と、それを倒した一揆の指導者の家は、歩いて行き来できる距離にありました。西金沢のまわりの平野は、中世にはそういう緊張感のある土地だったわけです。

「よねいずみ」という読み

米泉は難読地名として知られています。「べいせん」ではなく「よねいずみ」。江戸時代の登記にも「よねいずみ」の表記が見られます。

いま米泉町を歩いても、一揆の跡を示すものは見当たりません。ただ、伏見川が米泉小学校の脇を流れ、その先で高橋川と合流していく地形そのものは、慶覚が見ていたものとそう変わらないはずです。

参考