西金沢駅から南へ歩くと、住宅とアパートが続く押野の一帯に入ります。いまは何ということもない住宅地ですが、この近くを江戸時代、京へ向かう街道が通っていました。旧北国街道です。
この記事で扱う街道の道筋は、おもに野々市市側の押野から南の区間です。「押野」は金沢市と野々市市の両方にあります。
押野は、街道が確認できる北のはし
野々市市の公式サイトには、こう書かれています。市内には押野から本町・稲荷・三日市・徳用・郷にかけて、旧北国街道の道筋を確認することができる、と。
つまり押野は、野々市市内で街道の道筋をたどれる区間の北端にあたります。金沢城下を出た旅人が、市域に入って最初に通る場所だったということになります。
金沢市側の押野や西金沢のあたりを、街道が具体的にどう通っていたのかは、今回の調べでは確認できていません。市が道筋として挙げているのは野々市市内の区間です。
押野が金沢市と野々市市に分かれている理由については、押野はなぜ金沢市と野々市市に分かれているのかにまとめています。
金沢城下を出て、最初の宿駅が野々市だった
加賀藩は、野々市を金沢城下から京都へ向かうときの最初の宿駅として整え、荷物を運ぶための人と馬を常に準備させていました。北国街道は、江戸幕府の五街道に次ぐ重要な街道とされていた道です。
荷物は宿駅ごとに馬を載せ替えて運ばれました。1666年(寛文6年)に各宿駅が備えていた馬の数は、次のように記録されています。
| 宿駅 | 馬の数(1666年) |
|---|---|
| 津幡 | 118疋 |
| 鶴来 | 115疋 |
| 宮腰(現・金沢市金石) | 96疋 |
| 野々市 | 87疋 |
加賀藩のなかでも上位の規模です。米や日用品を積んだ馬が、押野のあたりを毎日のように行き来していたことになります。
着物を着替えてから城下に入った、という話
野々市市の説明には、旅人が野々市で着物を着替えてから金沢城下に入ったという言い伝えが紹介されています。百万石の城下町に入る前に、身なりを整えたということでしょう。
あくまで伝承として伝わる話です。史実として確かめられたものではありません。
宿駅というのは、単に馬を替える場所ではなく、旅の支度をし直す場所でもあった、ということかもしれません。
いま残っているもの
街道の痕跡は、押野より南に行くほど濃くなります。
- 本町2丁目には「旧北国街道」の石碑が立っています
- 街道だった本町通りには、いまも土蔵や町家が残ります
- 通り沿いの喜多家住宅(本町3丁目)は1971年に国の重要文化財に指定された加賀の大型町家で、石川県に残る町家のなかでも古い例とされています
歩いてみたい人向けの資料もあります。加賀地域連携推進会議(加賀・小松・能美・白山・野々市の5市と川北町で構成)が2021年2月に発行した冊子「北国上街道をあるく」は、金沢城を起点に加賀市大聖寺までの約55キロを扱ったもので、旧宿場町の見どころや一里塚を散策地図つきで紹介しています。1万部が金沢駅や県内の観光案内所などで配布されました。
西金沢から南へ向かう道
現在、西金沢駅と野々市市側を南北に結んでいるのは、石川県道106号野々市西金沢停車場線です。野々市市横宮町から金沢市西金沢1丁目までを結ぶ県道で、路線として認定されたのは1960年(昭和35年)のこと。北陸鉄道石川線とほぼ並行して走っています。
この県道が旧北国街道そのものを引き継いだ道なのかどうかは、今回の調べでは確認できていません。
街道の時代から鉄道の時代へ、この一帯を人と荷物が南北に通り抜けてきたという点は共通しています。かつて押野を通っていた松金線も、その系譜のひとつでした。押野の鎮守である高皇産霊神社も、街道が通っていた時代からこの土地にあります。
住宅街を歩きながら「このあたりを京へ向かう人が歩いていたのか」と考えてみると、いつもの道が少し違って見えるかもしれません。